しゅいしゅぎ

アナザフロンティアスクールにおける主意主とは、人間の個人的事象は一期一会性をもち特殊的計算不可能性を内包するゆえに、主知(理性思考)によるシステム(法則=計算可能化)かつ演繹法的(要は一般論)に適応すればするほど疎外が起こり不幸になると考える。ゆえに個々の深い広い強い特殊意(下腹重心)の形成を何よりも重視する考え方である。

有名なのはイマヌエルカントである。彼は純粋理性批判により主知主を鋭く批判した天才哲学者である。彼は人間の理性能力(言葉の檻)の限界が確定された上ではじめて、真の形而上学としての哲学(主意主義)が築かれるべきと捉えた。

ゆえに我々が特殊意志(健全な自分1番感=下腹重心)を持つためにも、まずは計算可能性を縁取りそこに対し明晰に批判出来るようになってこそ(合理性追求が非合理である指摘)を直観できてこそ、各々が一般論では語れない計算不可能性な領域を、人間生活に体現する事が始めて可能になるのではないかと鋭く考察したのが、この天才哲学者カントという存在である。

この点をさらに哲学的に鋭利に発展させたのがニーチェであり、経済学の文脈で革命的にアジテーションしたのがマルクスで、社会学の領域で集合無意識(精神性における主知主義)の批判にまで切り込んだのがマックスウェーバーであり、現代ディストピア化にまで通ずる技術論(テック過大評価における主知主義)批判にまで及んでいたのがハイデガーである。

あくまでもシステムや一般論法則ではなく個々の人体の主意にこそ、人が人としてねだらず勝ち得る美や輝きそして幸せ(記憶=唯一無二の身体性マスタリーロード)があるのだと、計算不可能性の経験則によって見出すのが主意主義者の特徴である。

そう言った意味ではDイエスもD釈迦も間違いなくこの主意主義者である。

そして蹲踞や足育レボリューションさらには舞装というのも主知主義による人間同士の疎外と、頭脳と人体の疎外文化へのカウンターカルチャーであり、この主意主義の復権でもあります。