のぶれすおぶりーじゅ

19世紀にフランスで生まれた言葉で、「noblesse(貴族)」と「obliger(務を負わせる)」を合成した言葉。

財力、権力、社会的地位の保持には責任が伴うことをさす。

身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と務があるという、欧米社会に浸透する基本的な道徳観である。

法的義務や責任ではないが、自己の利益を優先することのないような行動を促す、社会の心理的規範となっている。

また、聖書の「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)に由来するとも言われる。

例えばイギリスでは、国家・国民のために尽くす義務があるという意味に受け取られ、貴族やエリートの教育で扱われる。

アメリカでは「慈善を施す美徳」の意味があり、富裕層が貧しい人々に慈善を施すという形で実践されている。

最近では、主に富裕層、有名人、権力者が社会の規範となるようにふるまうべきだという社会的倫理として用いられる。

日本では、派遣労働者を雇い止めしたり、産地・賞味期限偽装で不当利益を得たりする例をあげ、企業経営者や政治家など社会のリーダー層にノブレス・オブリージュの欠落が指摘される。

自己(自社)の利益の追求だけでなく、社会を構成する責任ある主体としての取組が求められている。

それは文豪三島由紀夫さんの割腹自殺の話でもある。

ノブレスオブリージュ(もてるものの責任を負う)を三島さんは踏まえて無かった。

陽明学でいえば致良知。致良知を踏まえていれば、万民を愛すと言う事が自然と入っていたはずなのに大衆を諦めてしまった。

陽明学はそこを諦めないの系譜だったのに、
そこを諦めてしまった三島さんは陽明学の本所を見失ってしまったのでは!?という推理が、和の国アナザフロンティアスクールでは学べる。

昭和は言葉酔い父性の時代だった。
父性を体現する人がいなくなって、三島由紀夫さんのような人を、叱る人が居なかった。

あらゆる人の下腹重心が本来理だと、身体の奥底は至善であり互穴だと…。

お偉い作家さんだった三島由紀夫さんはどこまでも個人プレーだった。三島さんがもし陽明先生だったらどうしたろう?学び舎を作って教えるはずではないかと。

西郷さんも最後は教え、侍たちの学校を作ってあげた。

三島さんも作家活動を控えて、教える側に回るってことも出来たんじゃないか?と。

三島塾を作っても良かったわけだけど、彼はそれはやらなかった。

ボディビルで鍛えて刀振って腹切った形になった。

色々な舞台作品なんかは作っていたみたいですけど、そこが明治の文豪や士達との圧倒的な違いだったのかなと思われます。

それがまさに侍ノブレスオブリージュ。

人を殺める刀、権威をもっているサムライたちが一番礼節がないと、とても危険だという至極普通の認識を古来の日本文化は自然にもっていた訳です。

この侍ノブレスオブリージュをアナザフロンティアスクールでは明治感とも呼んでいる。