のうかいばでふぉると
アナザフロンティアスクールにおける脳海馬の定義とは、例えば『私はどこにいるだろうって』その検索ワードを、頭に打ち込んで入力し、返ってきた情報を頭で立ち上げたものが、実は単なる仮想記録に過ぎない訳だが、それを多くの人は大切な自分の記憶というふうに勘違いしている脳機能であると教わる。
そして私はどこにいるの?と自問自答している中で、それを統合的に、最もらしい最適解=自我フレームを溜めているのが脳海馬。
つまり脳海馬とは1番無難に私(一人称)を形成させるための、人体量子場よりも1段階解像度が低い記録保管庫であると教わります。
これは触覚静電気の一念の話ではなく、頭重心な考えすぎのニ次情報的な反応記録のつくり方が脳海馬だと思った方がいい。
虚無〜of Loveの話をした時に、自己愛が脳にはインセプションされていると教えました。
そこに脳海馬のベーシックな規定値があると。普通に自意識を放置しておけば自然と体験したものがどんどん脳海馬に圧縮して溜まるようになってるとも。
でもその溜まるプール自体の水の組成成分がナルシズムでできているということなんです。
だから長い経験を積んで、色んな記録が溜まれば溜まるほど、シニアであり、自分という確実な絶対的な何かがいると思って、新しい情報(自分探し)が引き出せるという仕組みがあると思ってください。
それが、死んだら終わりって話が、脳海馬デフォルトの話です。
そもそも体動説で大事なのは、この脳海馬から脳海馬以上の動きをあなたは創っていませんよね?って話が、釈迦chronicleで出てくる一人称障害配信の四苦八苦ということなのです。
「一人称障害者だね」って言われるのは、「あなたは脳海馬から出られるほどの情報処理を第一感(一念)で成し遂げられてませんね」という教え。
ここが大切なんです。なぜ釈迦Chronicleの教えが遥か先の未来を見据えてる教えになっているかというと、ここにまで至るからです。
脳科学を越える話をしてる部分もあるんですね。それが霊魂的な話じゃないよっていうところがポイント。
普段私達が、
1週間前何がありましたか?
1年前何がありましたか?
5年前どのような人生でしたか?と聞かれ、
思い出した時に、私という自己愛をディスプレイにして、思いだして、パソコンのOSが機能してそこから引き出して情報を見てるだけだと思って下さい。
この脳海馬との癒着的関係性ができあがっていることを一人称障害と言っているのです。
だからどのようにしたら、この人体触覚が脳海馬では捉えきれない長い時間同期を経た記憶を形成できるかっていう部分が、人体端末理論の教えであり響社長のナビゲーションです。
つまり、腐らない脳海馬のお話をしたいんです。腐ってしまう内向きな脳海馬ではなく、もうひとつの量子的脳海馬のお話なんです。それが人体ホワイトホール説になるんですね。
そこにまで至らないと似非理系教養にやられてしまうというか、21世紀の新自由主義者のわかったふりしたもっともらしい事を言ってる人達を越えたことにはならない。
だからこそ、自己愛の終焉というお話をしてますけど、ここからがポイントです。
少なからず生活に必要な一連の動きのデータっていうのは、脳海馬が保管してくれていた方が便利なわけです。
つまり、オートメーションで脳海馬が書き直してるから、飲み物を持つっていうのもオートメーション化して覚えたことであって、いちいち「飲み物持ててる。最高だ!初めて持った気持ちいい」って、一期一会で体験するというのはやはり無理があるじゃないですか。
つまり、コストパフォーマンスが悪いわけですよね。赤ん坊の時とか幼少期で何も経験がない時は、1から覚え直してるわけでしょ?
その道具としての目、耳、鼻、口を守るために脳があるわけですよ。グリット上の認識を安定供給させるために脳海馬は働いてくれてるってことなんです。
だから霊魂だけでいいとかって話ではないし、脳が必要ないよって話ではないんですね。ここは誤解せずおさえて下さい。
じゃあ何のためにグリット上に縁取ってる脳海馬や脳機能があるのかって話ですね、
それは、そもそもの人体を守るため。
その人体を守る理由は量子的な脳海馬に体をアクセスするためにある。
大事なのは、脳の中で起こってる記憶の創られ方がたったひとつのニューロンだけで機能してるわけではなく、ニューロンどうしで情報をやり取りして、神経核がRNAを送りあっていて、広大で複雑系な神経ネットワークを創ってはじめて優秀なIQって言われるものだったりする。
それと同じことが人体触覚どうしで起こるべきってことが時空協働創造態論であり、宇宙電のお話。
まずは、基礎的な脳海馬のネットワークが必要なわけですよ。でも、もう成人してて完成してるの。物を持つのに、いちいち考えなくてもできるだろうと思うんです。
でも脳機能障害があるとできないわけですよ。普通の日常的なもののやり取りすらも複雑になって大変なんですよ。
だから当たり前なもの(脳海馬ネットワーク)は必要で、だけどそこだけで終わっていいわけではないのです。
なぜそれがあるのかっていうと、その脳機能の先に行くためだったということを忘れちゃいけない。
頭重心をマスターしたから、次は下腹重心をマスターして、1個の人体をひとつのニューロンとしてそれぞれ繋げあっていくというステージに入るんだよね。
それは健全な自我、固定点、一人称(蛹)ができあがって、脱皮して、共有しあえるようになるよってことなんです。
だからこの脳海馬デフォルトも一つの自因自果のプロセスとして押さえるべきかなと想われますね。