マスタリーとは定義は難しいが比喩はわかりやすいものです。それは目的地や 終着点なのではなく、一つのプロセスの味わいでありまさに旅路なのです。
この旅路そのものが『MASTERY』と呼ばれるものであります。このマスタリーの 旅路は生まれつき例外的な能力を持つ人々にしか手に入らない特別な切符が 必要だと思われがちですが、実はマスタリーは何も特別な才能を持つ人特有の ものではないし運よくスタートが早かった人にとってさえ確かなものではない。
しかし、マスタリーの道を歩む腹の底からのコミットさえあれば、年齢や学歴、今までの経歴などは一切関係なく、この旅路は誰にでも可能なものである。
にもかかわらずこの戦争経済社会では、マスタリーの前に立ちはだかる巨大な謀略の様な狡猾な教育 (洗脳)ばかりであります。
我々はお金を基準に、 手っ取り早い満足、即席の成功、せっかちで一時的な安心安定などの保証の必要性の罠に四六時中攻めまくられているが、これらはマスタリー視点から みれば我々を着実に間違った方向に導くものばかりである。
そしてマスタリーロードはマスターロードである。
マスタリーロードとはマスターへの道であるのに、何かしらのマスターになる前提で有限の人生を生きていないと君の回転数は上がらない。
みなそれぞれのストーリーの中でマスターになっていく。
そのマスタリーロードの探求の中にこそピュアなものが見つかりそうじゃないですか?
それはノミとゾウの例え話でもある。
生まれた時から何かしらのマスターになるんだよ。と教えてもらっているのと、君は世界に一つだけの花になるんだよ。と教えてもらっているのとでは全く違う生き方になる。
マスターとは熟達者という意味であり、
それぞれ一体何の熟達者になろうとしているのか?それを自覚する事が大切である。
それぞれのマスターとなるべきポジションがある。まだまだ幼児願望があり、君は未だ他動マンかもしれないが、それぞれのマスターとなる道がある。だから人と比べている場合ではない。
町を歩く時にもそれぞれの体たちが何かのマスターになろうしているという思いで見れているか?
あのレジの店員さんにもマスタリーロードはある。
マスタリーロードは特定の個人の話ではない。それぞれが歩んでいるピュアな思いからくるマスタリーロードは1人1人同じではない
だから各々応援し合うことしかできない。
その体の代わりはできないという重みも受け取らないといけない。
すると課題の同一化したりでしゃばらなくなる。かわいそうなんてワードもでてこない。
そもそも時空の学びの途上においてかわいそうとかこの人は不幸とか、、どの立場から言ってるんですか?という話になる。
なのでニートへの変な同情より一番大切な慈悲はマスタリーロードを歩めない事を悲しむことです。
みなの悔しさ、やるせなさはそれぞれがマスターになるために生きているのに、お互いがマスタリーロードを歩ませにくくしちゃっている状況だろう。
そもそも意地悪をしちゃっていることへの情けなさからきている感覚なのではないかと思います。
ほとんどの電車の広告、本の帯など言葉が浮いてしまっている。一人一人がマスタリーロードを歩む、何かしらのマスター候補である事を改めて伝えたい。
個々がマスタリーロードを歩めるような社会のあり方とか、実際の会社のあり方を変えていけるか?というのはそもそも地球人全員の課題であると思います。