事物はすべて仮のもので、実体をもつものではないという考え方。空を観るとは、なかなか理論として理解しがたいものではあるが,要は何物にも執着しない生き方の中にこそ体得されるもの、つまりその体の空観なのである。
このように有と無という観念にとらわれないところに,本当の意味での空観の実践がある。
たとえてみれば,桜の木は春となり,諸縁が整って美しい花を咲かせる。
さらに夏,秋冬の時期には花の形はおろか何も みえなかった桜の木はいわば空なのである。
それを見通す事を空観というのです。
つまりそれは無ではない。必ず春ともなれば, 膏みを生じ,やがて美しい花となる。
美しく咲いたその桜の花は「妙有」というべきもので ありましょう。
これにより,縁起の理がそこにあると洞察する事これすなわち空観である。
しかし空観も行き過ぎると有ではなく,無に偏り,存在自体も空であると観察し苦悩のもととなる執着を離れて、彼岸に達っそうとするあまり、結果的にこの世を虚無的に捉えることに慣れ親しんでしまう傾向がある。
これを空観の快楽または勝手な多幸感ともアナザフロンティアスクールでは呼んでいる。
空観はそのような意味においても現代でもなお求められ、その有効性も危険性も失われていない訳であります。
そもそも空の思想は初期大乗仏教の『般若経』に説かれた思想であると釈迦AFSでは学べます。
これを紀元一五〇から二五〇年頃、南インドのバラモン階級の出身で、八宗の祖と呼ばれる竜樹(ナーガールジュナ)が体系づけたと言われてます。
この竜樹が著した『中論』によると、この思想は部派仏教でいうところの、万物には霊魂のような不変の実体があるとする「有(アートマン)の思想」を否定する考えであったのです。
「空」とは、もろもろの事象は縁起によって成り立っていて、永久不変の実体(固定点)がないということ。
これは般若経典に説かれているという考えで、中観派によって主張されている大乗仏教の根本の真相ともいえる。
さらに『龍樹』によれば、空は「縁起→無自性→空」の回転順序を経て成立するという。
この回転順序を偏らず捉える法を中観と彼は教えたのです。
さらに龍樹は『大智度論』によって般若経を解説し、「一切皆空」が諸法の実相であると論じた。
龍樹によれば、釈尊の説いた「空」とは我々の認識作用を超えるもので、縁起と同じ意味だともいう。
では「縁起」とは何かというと、宇宙の一切の現象は因(直接的原因)と縁(間接的条件)の和合によって成立していることを言うのである。
言い換えれば、様々な原因と条件によって成立している固定しようがないものを「空」と表現する。
有名な『般若心経』にある経文語句、
「…色不異空 空不異色 色即是空 空即是色…」がこのことを表している。
大乗の空観を説明するものとして『般若経』にある一文を次に掲げる。
「良家の青年よ、あなたは、一切の存在は空であり、形のないものであり、願い求めるべきではないものであると理解して、これらの“智慧の成就”こそ求めるべきである。』
形あるものへの囚われ捨てること、
存在への執われをすてることにより、
そして生きとし生けるものたちが実在するという見解を離れた所に心を置くべきであると示されている。
また『中論頌(ちゅうろんじゅ)』には、およそ縁起したものを空であると説く。
それは縁あって仮説される存在であり、それはまた中道であるともいう。
いかなる存在も、縁起したものでないものはないから、それ故に空でない存在は有り得ない。
もしも世間のすべてのものが空でないとするならば、生ずることも、滅することもできないであろう。
やはり空の論理は難解であるが全てはただの無であるというものでは決してないので、ぜひ近未来の教養として釈迦アナザフロンティアフロンティアスクールで空観を学びえてほしい。