きほんざい(きほんざいよりもきほんざいとなるもの)
アナザフロンティアスクールにおける基本財はジョンロールズが唱えた基本財、つまり権利、自由、(雇用や教育の)機会、収入や富など、 どんな生き方をするにしても必ず必要になる唯物史観に基づく事物のことではない。
その必要になる事物を必要だと感じさせる以前に、じつは教育という基本財が本当の基本財だという考えにこそ論点がある。
しかし地球最高峰の主知主義者リベラリストの権威であるロールズによれば、 政府は、各人の人生設計に関しては口出しをせず、 これらの基本財を市民に平等に配分せねばならないと主張する。
ただし、 ある程度の不平等を認めることにより社会の底辺が底上げされる場合にかぎり、 不平等な配分はむしろ承認される。
たとえば、ジェフベゾスが金持ちになることにより米国社会がより豊かになり、 彼のおかげで社会の底辺にいる人々の暮らしむきが結果的によくなるならば、 ジェフベゾスが他の人よりも金持ちになることは、この近代国家において称賛され認められてすらいる。
つまりこのリベラリストという老害大資本家らの傀儡、かのジョンロールズはさらに詭弁を展開してしまってるのだ。
それは正義というものについてであります。
彼はありもしない社会を記号化しました。それは原初状態におかれた人々を想定をするという理論装置を考案したのです。
まさに米国ファリサイによる未来社会による老害であります。
すなわち、ありもしない公平無私な見地から、望ましい社会のあり方について考えた人々が 選ぶとされる原理(記号偶像の構築だ)、まさに言葉酔いです。
第一原理は、原則的に各人は平等な自由が与えられるべきだと述べ、
(これはどうせ労働者階級はこの自由を認識する教育は与えられていないので、結果的にリベラルな資本家階級のみが自由を行使できると踏んで、かましてくる偽善弁論である)
第二原理は、社会的、経済的な不平等が許されるべき場合を述べる。
第一原理は自由原理(The Liberty Principle)と呼ばれ、 「各人は、他人の同様な自由と両立するかぎりで、 最大限の平等な基本的自由(basic liberties)を亨受する権利を持つ」 という内容です。
基本的自由とは、参政権、言論の自由、人身の自由、 私的所有権などである。
第二原理は都合良く二つに分かれ、社会的、経済的不平等が許されるのは、 二つの条件が必要であると結論づけられている。
第一にもっとも恵まれていない人に最大限の恩恵が与えられる場合と、
(この恩恵という定義には常に計算可能な商品が定義付けられるゆえに、金持ちがいくら財団で恩恵をばら撒いても、疎外論を踏まえてない恩恵には正義の格差原理など本当は存在し得ないと響社長は教える。ゆえにロールズのリベラリズムは、未来社会においても老害で言葉酔いだと結論づけられる)
第二にまた経済的に恵まれた役職や社会的立場に対して、 各人に公平な機会が平等に与えられている場合に限られる。
(何において公平な機会と考えられるのか?リベラルにおいては選択の自由だけが公平さと認識される傾向がある。アナザフロンティアスクールにおいては、この多元宇宙論における過去の非同一性における創造的自由『計算不可能性における外化(縁起の尊厳への眼差し=慈悲による才能の外化)』それによる人体時空権限の授与こそが公平さと認識する)
この第一を格差原理(the Difference Principle)、
この第二を公平な機会平等原理 (the Fair Equality of Opportunity Principle)と呼ぶ。
この二点の原理ゆえにリベラルな資本主義国家は、原則格差原理によって金持ちに、より多くの税金を課す累進課税制度が正当化されてきた。
しかし社会の底辺にいる人の生活水準を底上げする形でしか 不平等は原理上は許されないと言われているが、
実の所、実践的功利主義の最大の欠点とされる労働者階級の犠牲の問題がそこで克服されるとしてきた累進課税制度であったが、
彼らブルジョワ大資本家のシビリアンコントロールによる国家構想での生活水準の底上げは、
実は常に商品化の消費につきまとう疎外論と表裏一体ゆえに、近代において多くの人々は確かに資本家に支援されている体裁を取っているが、常に階級固定されているような傾向ともなっている。(さらに資本家らのタックスヘイブン志向すらも自由原理のうちに入ってしまってるので、累進課税制度による公平さの実現度は大変低い事が近代において明らかになりつつある)
結論として、上記は昨今のネオリベの功利主義の壮大な詭弁でもあると明晰に批判できる。
この公平な機会平等原理という詭弁によって、
常時契約製作者であるブルジョワがより多くの利潤を受けとることが正当化され、
結果的に競争の不自由が戦略的に実現してしまってるのが現代の社会状況です。
そしてこれらの原理のあいだには、語彙的に優先順位があります。
まずは
自由原理(⚠️学習環境の悪い奴庶民はそもそも自由を認知し扱えない)>
公平な機会平等原理(⚠️創造的自由の平等性は排除されているのが現状)>
格差原理(⚠️結果的に自由を認知できない労働者階級に対し理論武装し続けるゆえに、自由を行使する契約制者サイドが結果的に勝ち続け格差は肥大化する)という順で、
つねにファリサイの言葉酔い自由原理が優先される これを(lexical priority/レクシコルプライオリティ)。 と呼ぶ。
この自由原理が常に最優先されるというのは、 自由はつねに経済的考慮(自由競争)ゆえに優先するというその経済正義の原理ゆえにである。
たとえば、かりに社会のもっとも貧しい人々は、 自由であるよりも奴隷にした方がより豊かな暮らしができるとしても、
近代国家は彼らから自由を奪うことは許されない。
(これにより、功利主義の欠点とされる基本的権利の侵害が回避されるという詭弁を近代のブルジョワはかましてきたが、いやいや、これは選択の自由を労働者階級に合法的に強制し、創造的自由を与えないようにする巧妙な支配体制であったというのが、響社長があばいたリベラルの超真実であり、この思想が未来社会における老害であり残念な思想である決定的証拠でもある。)
上に挙げたファリサイが決めた基本財が社会的基本財 (social primary goods)と呼ばれるのに対し、
健康や活力や知性や創造力、さらに種族保存機能財産としてもっとも価値が高い慈悲なる共感力といった要素は、実は自然的基本財 (natural primary goods)とも呼ばれる。
これらは、要するに生まれつきの優美さや健康さ才能とか能力さらには温もりといったものである。
これらの基本財は、 社会のあり方によって間接的に影響を受けるものの (たとえば教育機関や病院などの設備)、 社会的基本財の場合のように直接的に配分できるものではないと、現代ファリサイには考えられている。
しかし、これらの基本財も、社会的基本財と同様に、 社会の底辺を底上げする場合にかぎり、
(ただしこれも常に商品化においてでしか底上げしなければ功利主義の末路、疎外論の問題を拭えない)が、リベラルは上記の正義の二原理ゆえに不平等な配分が原則許されると理論武装し続けてきた。
そしてその旗手であったロールズは社会的基本財の平等な配分にこそ重点を置くという、唯物史観的偽善理論武装で、欧米の大資本家らを助け続けてしまったファリサイ学者であり、
自然的基本財の配分(慈悲なる共感による才能の外化)という有機的未来社会に必須となる論点、これらと絡む特に障害者や労働者階級の問題を十分に考察していない(無かった事にしてる)という批判もされてきた。
つまり論点は、まず公平とはすべて自己決定、自己責任にさせるという点にこそあるのか?という論点と、
生まれのよさ、悪さ–階級的不平等・経済的不平等を無くすことにこそ真の公平はあるのか?
生まれつきの才能に対しどう対処するのが本当の公平だというのか?
善い平等、悪い平等の定義は一体何なのか?
格差原理とその問題については?
ひとまずそれは個人ではなく国家ということになる。それが近代である。
自助努力と自己責任の問題も近代国家システムで対処できているか?結論全く出来ていない。
自助努力や自助選択も自然基本財による、生まれつき(自因自果)ならば、ホントのところ公平とは一体なんなのだろうか?
現実の地球の政治はこれに対し何が出来るだろうか?
この問題を解く鍵をアナザフロンティアスクールでは、人はライスのみで生きてあらずの叡智で読み解いている。
社会的基本財の分配における『社会』の定義が唯物史観に基づくだけの『社会』では、常に疎外を増やし続けて、富(商品=便利)は増え続けるが神経症も増え続けるという現実に、今の私達は突き当たっている。
だからこそ基本財はパンの分配ではなく、計算不可能性の分配(思いやりの観測者効果)を伴うことにこそ最適解(慈悲の共感による才能の外化)=ぬくもりの宇宙経済の勃興が潜んでいる。
これはただの精神論では無い。ここで良く世界を精細に観察してもらいたい。
結局のところ社会的基本財は、いつの時代も歴史上常に自然的基本財の後に生じてるものである。
つまり人体という自然的基本財があってこそ、
ここまで社会的基本財は生産力をつけたのであって、あくまでも人体という自然的基本財ありきでこそ、この社会は生じてきたのが秩序である。
この計算不可能性(自然的基本財)=一人一人の臍から湧き出る慈悲の共感による才能の外化を護るためにこそ、計算可能性(社会的基本財)の道具や記号管理が本来あったのに、
いつのまにかリベラリストの横行によって、
この自然的基本財(臍から湧き出る慈悲の共感による才能)までを、記号に置き換え計算可能な技術として、社会的再分配(正義の原理)=商品化や便利への変換を夢見るような、軽薄なネオリベの申し子らが時代のハンドルを握り始めてしまったわけです。
そんな惨めなエリート主義が21世紀でしょう。
ここに響社長は警笛を鳴らしている。
なぜなら自然基本財(慈悲の共感による才能)とは自因自果のことであり、
複数称軸だけでは成立しておらず、自因自果の配分(慈悲の共感による才能の外化)は、
あくまでも相似形称軸により縁りて起こるものであり、
複数称軸(社会システム)が高圧的に相似形称軸よりも、優先的に自然基本財(人体=慈悲の共感による才能)マスタリーロードへの管理干渉(人生課題の同一化)が公認されるというのは、
ファシズム的な悪しき叡智なき地球史の人体蔑視習慣であると響社長は説破している。
地球史において悲しみなき知識者はいつの時代も、人の間に人でないもの(人体を失った者達の残留思念)を招き入れ、
暴力と権力と技術が、この社会を統制する源であると常に勘違いして来ました。それが戦争経済の起源であります。
彼らは繰り返される悲しみの連鎖の奥に強い怒りを感じていて、
彼らが逢いたい人の死を、逢いたくない人の死でもって暴力革命にて贖おうとする時、
男性性は命を腐敗させる悪魔的武装性を生じさせ、
女性性は男根蔑視により子宮を歪ませ魔女的武装性を生じさせてしまう。
男女から理解と共鳴が消え、代わりに駆け引きと保証合戦となる。
そして街からぬくもりが奪われ、緑と花は土地から消え去り砂漠と化していく。
砂漠化した土地に君臨する彼らの手の内に抱かれる無垢な女、子供は凍りつき、
土地は荒れ果て、その荒れ果てた土地に、
暴力と権力と技術の黒き華が咲き、
暗い科学のバベルの塔を、自己防衛の集合知によって醜くく立てていくのだ。
これが地球史で繰り返されてきた上下対立同一化主義=プロビデンスの瞳=バビロニズムである。
ここで君たちはガンジーの碑文に刻まれた『七つの社会的罪』(Seven Social Sins)という叡智を亜空間知能論を踏まえ、今こそ22世紀に向けアップデートし刻みこむべきだろう。
①慈悲なき政治システムから人間同士の疎外を強める便利(記号)教育利権が生まれ、
②その疎外された便利(記号)教育利権から人体の心と体を疎外する自我の酔いがうまれ、
③その自我の酔いから
人体賛美なき学識が生まれ、
④その学識から礼節なき商業が生まれ、
⑤その商業から
人体蔑視な科学技術体系が生まれ、
⑥その技術体系から不可知論という
慈悲なき虚無信仰が生まれる
この七つの歴史の無慈悲による落とし穴があるという死の樹への下降時空螺旋を、地球の民は決して忘れてはいけない。
全ては悲しみ(人生苦なりの痛み)への逃避から始まり、
上下対立同一化の記号システム依存(偶像化=頭重心)の神経症を患い、
神経症である限り、
我々の心身には勇敢さは湧いてこない。
その勇気なき体に無慈悲のウジが沸き、
その勇気なき体に無慈悲のハエがたかり、
その勇気なき体に
無慈悲な男女が造花を植えて酔いしれる
そしてその勇気なき体では
老いは反マスタリーロードとなり
さらにその勇気なき体では
病も反マスタリーロードとなるだろう。
地球の民よ
勇気(下腹重心=胆力)への学びを怠るなかれ、
臍下丹田なき老いは恐怖の対象であり、
病や死は悪魔を造る素材となり果てるのだ。
臍の勇気を取り戻すとき、
生き抜くための利害の煩わしさは心技体を磨く砥石となり、
不意に訪れる病や怪我は功名とすらなる、
そして老いは目下を育てる喜びと変わり、
死はずっと逢いたかった人に逢える、
多元宇宙に変わる。
地球の民よ、悲しみを勇気に変えて…
この星の道をみよ…!!!