けがん

釈迦AFSでは,あらゆる存在や事象には固定的な普遍的実体はありえず,空なる流れであり回転であると説くが,私達が暮らす世俗的な相対的立場からは,それらは《かたち》を実感するものとして無意識的に自動でとらえられる。

その仮の形を自動的にとらえる観測を『仮観』という。「仮観」とは、この世の「ありとあらゆる空なる回転」に対し、『それぞれに唯物的な役割(機能的かたち)を持たせる』という定です。

そもそもこのカタチも「無常(万物流転)」だから「仮」なのですが、例え仮であってもその役割やカタチには、結果的に実感や機能があるので積極的にそれを欲してみればいいのではないかと仮観では考えます。

 この様にすべての存在にはひとまず役割(カタチ)があります。なぜならそれは縁起があるからです。

すべてのものが関係しあうため、その関係性の中でまったく役割(カタチ)の実感その縁取りを果たさないものなどありえません。

 つまり役割は「存在意義=物のカタチ」と置き換えることもできます。すべての人が必ずか、物、組織や時代そして場所との関係性の中で生き、そのかや物や組織さらには時代の役にたっており、その存在意義(カタチ)なる縁起があります。

このカタチは私達が共通の二重螺旋というプログラムに支配されたゲームの住人である
ゆえにおこる事でもあると言えます。

実は私達がこの世と把握しているものと、普段、皆さんがしてるスマホゲームの世界というのは本質的には大差がなかったかもしれないのです
 
例えば、この世界は私達の感覚器官が感知可能な範囲の情報を元に脳によって創り出された架空の代物でしかなく、その構造はプログラムが創り上げたVR(仮想現実)の世界と実はそう変わりません。
 
また、冷静に考えれば「一体何の意味があるんだ?」と思える非合理的な人生観(例35年マイホームローン購入やエベレスト登頂)でも、

この脳が設定した価値基準を理由に求めてしまう私達の、ようはゲームが設定したレアアイテム(キャラ)を追い求める様とそう変わらないでしょう。
 
更には、この世もスマホゲームの世界もどちらも、電気や原子の状態でしかないことも含めこの世と定義する場も、ゲームと定義する場も、幻、虚である可能性を否定できない点ではそう大差はないのです。
 
そうした意味では、この世で競い合う富も名声も、根本的な構造はゲームのレアアイテムと殆ど大差なく、私達は脳(ゲーム)や社会(運営)が言葉で後付けした価値ある種のアーキテクト(設計者)に踊らされているに過ぎないとも言えるわけです。
 
そしてそんな現実世界という名のゲームの中で世間が煽る富や名声という名のレアアイテムに対し、

「ただのデータ、ただのゲームに血まなこにになり必死になってマジ馬鹿じゃねぇのw」と見切った境地に至ったのが空観、

「いや例えデータでも、結局はゲーム内でしか自分のコントローラーは動かないし、作用しないんだから、なんだかんだ言ったってレアアイテムはあるだけ欲しいに決まってるだろ!!!」と執着してしまうのが仮観、

「データに固執などしない、けどやっぱりゲームって1番愉しんだ奴が結果的に面白いものじゃなかったけ?」と考えたのが中観です。
 
さて、『空観,仮観,中観』、AFS的にはどの生き方も個人レベルでは選べますが、現実の世界には「物理制限」という量限定のレアアイテムが存在する以上、

結局は「このゲーム(人生)が楽しくないのは運営(社会)やアイテム運(金運)が悪いせいだ」と事象の有無(結果至上主義)を絶対視する、あの『仮観』だけでは、どうしても息苦しいことも多い事でしょう。
 
そんなときは、クリアを目的とせず、楽しむための手段としてゲームに取り組み、ある種のアイテム運のなさもゲームの面白味の一つとして楽しむ達観。

そんな『空観』と『仮観』のバランスをとった『中観』こそが役に立つ教えだと釈迦AFSでは学べます。