じーてぃーおーもんだい

GTO問題とは、ゆとり教育を真正面から受けた87、88、89年度生まれの2020年現在30歳を過ぎた大人たちが直面している「大人げない大人」に世代全体がなってしまった根本原因が実はドラマGTOにあったのではないかとされる世代間問題のことを指す。

 

ゆとり世代の幼少期~少年期である90年代といえば、バブル崩壊、松本サリン事件、阪神大震災、々の暗いニュースが時代に影を落とした。長引く不況が「リストラ」を引き起こし、社会からはじかれた中高年がホームレスとなる。50代男性の自殺増加が社会問題となり、「オヤジ狩り」なるものも出始めたこの時代。暗くマジメな大人は損するし、カッコ悪いという思い込みが僕らゆとり世代を覆った。

 

そんなときに颯爽と登場した救世主ティーチャーがいる。

 

GTO(グレート・ティーチャー・オニヅカ)だ。

超人気学園ドラマ「GTO」の主人公である鬼塚先生。元湘南の走り屋である鬼塚先生が、学園全体に巣食う々の問題を型破りな方法で解決し、活躍する!当時の社会問題、教育問題に真正面からぶつかっていく様は、見ている僕らをスカッとさせた。彼こそ、当時の学生、思春期世代のヒーローであった。

 

そして、忘れてはならない。その対極、敵ともいえる「カッコ悪い大人」の象徴がいた。

 

内山田教頭先生だ。

学苑に3人いる教頭の1人。団塊の世代にあたる51歳。ハゲ頭。些細なことまで口うるさく、油症で歯周病。学苑内の問題や家庭内の不和により、多くの持病を抱えており、便秘や血尿が出るほどストレスを溜め込んでいる。その姿は、まさに時代に翻弄される代表的な「オヤジ」の一人であり、汚く、信用できない対象であり、当時の若者が最も忌避したくなる存在であった。

 

その有り様に、僕らゆとり世代は潜在意識に一つの思い込みを刻まれた「あんな大人になりたくない、いや、なるわけがない!」。

 

内山田教頭先生に対する全否定は、僕らに暗いトラウマを残し、彼の無視してはならない、もう一つの側面までを無視させることになった。

 

それは「責任」である。

 

あらゆる組織では必ず責任が伴う。

そして年長者、上司ともなれば、部下や後輩の責任までとることとなる。特に中間管理職という間に立つ者となれば、それは余計に地味で、ときには敗戦処理にも見える一見損な役回りだ。できなければ非難され、できても褒められることはない。

 

鬼塚先生のド派手な型破り即興が起こした輝きの裏、まき散らされた残骸の後片付けという損な役回りを、時には愛車「クレスタ」を破壊されながら、粛々と担い続ける内山田教頭先生。身を削りながら上司として尻を拭いつづけるその姿がフィーチャーされることはほとんどない。そりゃ口うるさくもなるだろう。

 

僕らはその背景を受け取ることなく、ただただ内山田教頭先生を「ダサい、汚い大人」と敵視し、舐め続け、気づけばその損な役回りになることからは、逃げるのが得策だとすら思い込んできた。

 

そして、その対極にいる鬼塚先生への憧れが勘違いを生み出した。

 

それは「無責任」が閉塞をぶっこわすというズレた救世主観であり、「周りに気を配るメンドクサイことをしなくとも【即興】で上手いことやれば、人はついていく」と錯誤してしまったが故の、無責任個人プレーへの憧れ。だからこそ、チームプレーより個人スキルの腕をみがく「デジモン人生観」をも大いに育てあげた。いつしかチームプレーは苦手になっていった。いつか我こそ「世界に一つだけの花」になるときがくると、妄想しながら。

 

そうして、思春期に責任感の芽生えを経験することなく、多くのゆとり世代が大人への階段を上ることとなる。

 

さらに、もう一つの勘違いも起こった。それは鬼塚先生が生徒に対して言ったあのセリフだ。

 

「のぼるは、俺の友達だから、なっ!」

 

チームプレーが苦手となった、僕らはこのセリフにもひどく感銘を受けた。立場の垣根を超え、対等に力を合わせるような景色に映ったんだ。

 

それは、当時の先生方にも影響があったと思われる。ゆとり教育という教育システム改革も相まって、何らかの変化を求められた先生方の間にだんだんと友達先生が増えていったのだ。

 

【友達】。辞書を引くと「互いに心を許し合って、対等に交わっている人」をいう。

しかしながら、先生と生徒という関係は本当に対等なのであろうか?

いや、そんなはずはない。なぜなら、教える側と教わる側には明確な上下関係がある。その関係を無視すると、お互いの立場、つまり「責任」を全うすることはできなくなるからだ。

目上は遠慮がちとなり、目下は目上を舐め、本来教わるべきものを教われなくなってしまう。

 

要するにそれは、関係性の崩壊であり、学ぶ機会の逸失でもある。教育の本分が崩れる致命的な欠陥が生じている、その真実に当時からも気づかないまま、「平等は素晴らしい」などと履き違えた権利を主張することが当たり前な時代を迎えた。結果、僕らは目上の人と対等の立場であるかのような錯覚までも起こす。

 

それはメディアとともにより強固なものへとなっていく。テレビでは1998年ドラマ「GTO」が大ヒット以降、「大人は汚い、敵だ!」というメッセージを多分に含んだ「キッズウォー」「ごくせん」などのドラマの流行までもが波状攻撃のように加わり続け、毎年夏になると何度も何度も繰り返される再放送とともに、間違った平等意識と「大人は汚い、信用できない!」という刷り込みが、やたらになされた時期でもあったのだ。

 

その中で、多感な時期を過ごしたゆとり世代は、その影響をもろに受け続け、「大人は汚い!信用できない!あんな大人には絶対ならない!なるわけがない!」と潜在意識に根強く持つこととなった。

 

ただし、実際に大人にイジワルをされたかといえば、そんな体感はなかったりもする。そこには濃い大人との関係性、面倒見てくれる感強めの世代との交流、両方の途切れが見事に重なってしまった不運までもが影響しているのだから。そこからくる肉感のない「大人は汚い、暗い、怖い」という妄想の先走りは、恐怖として世代に憑りつく結果となっていった。

 

そうした種々の影響を受けながら、ゆとり世代は、大いにズレた大人観を形成したのである。

もうベチャベチャですよ!!!

少年期に描いた「あんな大人にならない!」という思いとは裏腹の、冴えない「大人げない大人」になってしまった、この現実。

チームプレーができない、個人プレー即興、後片付けしない、目上を尊敬できない、どんな人も自分と対等と勘違いする、そんな無責任な大人に一体誰がついていこうか?故に起こった、上からも下からも慕われないという滑稽な断絶。こんな状況を一体誰が望んだだろうか?いや、望みはしない。ただわかっているのは、この思い込みを早急に片づけなければ、我々ゆとり世代に明るい未来はないという事実だ!

 

様々な勘違いを上塗りしつづけたクズな部分を認めながらも、一人だけでつくってきたわけではない、この世代間に染みつく勘違いの一つ一つを共に学び合い、教え合い、冷静に洞察し、本気で悔しがり、悪あがき、マシな大人の道へ喰らいついていこう! 

 

こそ、GTOの呪いを解く時だ!!!