ちゅうがん(ちゅうがん)=ちゅうろん

中観とは釈迦の伝説の弟子(後継者)と言われる龍樹が見出したニルバーナへの理解である。そこで説かれたのは仮観や空観ではなく中観という考え方。

そもそも中観を説く中論は巷の空性に対する偏った理解をしてた人たちを修正するためのテキストだった。

この龍樹の指し示したある種の叡智をの仏教界の人たちが、どれくらい理解しているかというと、多分危ういだろう。

主体と客体のロジックをひたすら壊していく話である言葉は、まさに言葉の記述が全て無意味であるという圧倒的な結論のために、龍樹により完膚なきまで書かれているような教えである。

自分がある他人がある、この私たちが五感で使っている存在認識そのものの勘違いをひたすら指摘し続けるのが中観である。

この言葉による存在再定のむづかしさ。

言葉自体がすでにエントロピーを持っていて、次第に崩壊していくことを理解しながら、傾聴し学ぶことが大事だといのうのが中観の教えである。

どこまで行っても方便であり便宜だと言うこと。

ここで大事なのは、即化導(そくけどう)。

即化導とは、刹那を捉えるという教え。

その瞬間悟る。実学に落とし込む。
いつか悟るという未来依存は無いのです。

二分割情報処理をどうやったら終わらせられるかを、より現実的な論点から語っているのが中観の教えです。


今まで古今東西多くの人が教えてきた人生における空観も仮観も固定点(ある人は和合、ある人は時間、ある人は世界、変化、自然、微塵)が結果的にあるに過ぎず、そこではどうしても移動があり何かが消え何かが生まれると語ってしまう、ということ。

それは何か存在の完全情報があると思って、その言葉が色を変えて別の言い方を言い回しているだけなのです。中観はそれをやめよう、という話なのです。

それは無因(虚無であるという固定点)、

邪因(何か完全な神がいるという偶像)、

断見(全てそういうことを考えてみることも全て無い、と言い張る固定点)、

常見(全ては不変で永久不滅であるという固定点)、

断常(全て続かない刹那である、というのも固定点)、

これら全ての教えが邪見であると説破したのがお釈迦様だったのです。

龍樹の時代から自己解釈して、固定点なのに釈迦の教えだという人が一杯いたので、龍樹は中観を説きそれをやめろという話をしている。

「仏法を知らしめようと思うが為に、声聞のための法の中で十二因縁を説き」その十二因縁とは自我の酔いの8万4千チャンネルの話だ。

因縁果があるのは事実だが、因縁果が何かどこかで始まり終わりを決め区切ることは間違いであると説破している。

「それらを習い行じ終え」このフレーズは十二因縁を説いて、複称形、相似形称がぐるぐる回っているという運動性をもう習い終えましたの意味です。

「慈悲を持ち」→(悲しみありがとうのぬくもり)中丹田を開いて

「大乗の法を持って」→(サマーオブラブ=客体と主体がない状態、空性の状態。円と楕円の運動通路論を自覚して。)

「因縁の相」→それでも我々にはなぜ因縁が起こるのかというと、

「つまり一切の法は」→この一切の道ができていく意味は、

「不生」→実は生まれることもない
「不滅」→実は消えることもない
「不一」→実は一つになることもない
「不異」→実は完全に異なることも無い
「畢竟空」→実はある種、空であるその無所有であるからこそなんだと解いた。

龍樹は十二因縁(8万4千チャンネル)で起きる方向性の全部を説き縁取った。

そのあと、慈悲ぬくもりを持ちなさいと語りかける。

その上でより深い、5感、人体ユニバーサルデザインが存在することの意味に立ち会わないといけないと我々に説く。

そしてこの体(現存在)は何なの?という謎が残る。

その上で慈悲(ぬくもり)を持って釈迦の見出した深い教えを受けるのに大事なことは何ですか?というのが、

「不生不滅」「不異不断」=0.3秒後の脳世界を持たないという状況がもっとも大事であると通訳したのがマスター龍樹である。

そしてそのD釈迦通訳の説明責任地球最高峰が、このマスター龍樹の描いた中論(中観)という叡智だと理解すればいいのです。