しゅはり

守破離とは剣道や茶道など道がつく芸事で、修業における段階を示したもの。「守」は、師匠や流派の教え、その型、技術理論を忠実に守り、確実に身につける段階。

「破」は、他の流派の教えについても考察し、活かせるものを取り入れ、心技をさらに発展させる段階。

「離」は、帰属した一つの流派から離れ、独自の新しい心技体を生み出し確立させる段階。

けれどアナザフロンティアスクールでの守破離のスタートは実は「守」ではありません!!!

この伝統の叡知は「守破離」って言われるくらいですから、まずは「守」!と思いがちですけど、実は「守」の以前にやることがあるんです。
 
新しく始めることに関しては、そりゃもちろん「守」からでいいんですけど、果たしてその態度はホントに無心の守(ゼロからのスタート)になってるんだろうか?って話で。

それは水を含んでないスポンジの状態からの「守」の徹底なら凄く磨かれていくんですけどシニア化するとそうでない人が大変多いのです。
 
つまり「守破離」ってそういう名前になってるだけで、本当の姿は
 
守→破→離→守→破→離→守→破→離→守→破→・・・っていうまるで扇風機の羽根のように断続しつつ、その音のよう連続し回転しているものです。しかし素早く動き習い続けているとまるで羽根が一枚の円盤のように連係し一体化する心技体の真髄なのです。

そして大元の「守」に関してはもう自分が生まれたての時の赤ん坊の頃の態度とか、そんなレベルの姿勢の要求になります。

なのでこれは構えたところで脱力の始点は殆どの人が見つからないので、大人になってから何か始めるとすると、実は「守」の前に「離」をすぐにやる必要があるのです。

要はコップの水を捨てないと新しい水は入らない、みたいな話です。の自分に守をトッピングするような感覚だとすると、それは叡知の備わった「守」ではないのです。
 
*少派の捨てられなかった人たち
各アナザフロンティアスクールの講座でも極少だけど結構ある話で、以前に○○を学んだことがある人がAFSに入学しすっごい頑張るんだけど、なんかしょうもない所でつまずいたり、それは納得できない!みたいな変テコな自己解釈されるパターンがあるんですが、叡知も教授する人物によって表現や創造が違ったりするんです。

使われる用語の部分は共通してるんだけどその運用面では違ってることは人物が違えば違うものなんです。

ですので、いったん自分の固定化して持ってる癖を捨てて挑まないと、通用しないんです。

それをしないで礼節なく上から一生懸命上塗りのように学習や稽古を重ねても、体得できるもんも体得されません。

当人としては一生懸命覚えたりノートを取ったり、必死でついて来ようとしてる様子なんですけど、そもそも前提のところ見直さないとダメだよ!って話になります。
 
例えばスマホの売り場の話で、違うキャリアから移って転職して来た方をイメージしてください。この「スマホ販売」って業種ジャンルは一緒でも、キャリアによって結構微細に違うんですよね。

特に、大手3キャリア(ドコモ・au・SB)と格安スマホ系は全然違います。

なので、もしどこかのキャリアに所属した経験値はスマホ販売というジャンルでは同業なので多少は当てになるのですが、結局は新しく帰属したそこのキャリア、転職先の事を詳しく知らないと、今までのせっかくの自分の経験値も活きてこないわけです。

しかしここで「自分は別のキャリアでやってきたから」という驕りをまず捨てないと、逆に経験値の高さゆえに「守」でつまずく方が多くいます。
 
なので、人生のマスタリーロードに挑む場合何をするにも「守」の前に「離」(自分史の断捨離)が必要になるのです。
 
これは違うジャンルに挑戦する時でも一緒です。多くの人は今までの経験値から推測して動いてしまいがちだけど、まずその経験値からくる考えや癖を潔く捨てないと学べないのです。
 
実はそこまで踏まえてこその「守破離」なんです。

べつに守破離ってのはあくまでネーミングです。要はこの叡知名が「守破離」ってだけで、前提としては『離×守破離』が本当の所の真相なんです。