むえんじごく

現代社会において日本人は、一人ひとり誕生と死が見えにくくされ「無縁」に陥りやすい環境なのである。つまり肉体的な生と死が公的につながり合う事が見えにくい社会なのである。

まずそれは人間以外の生物・無生物、さらには天気や惑星太陽系、宇宙空間は心を持たぬモノだと見なされる無知から始まる。

ただし逆にその人によって擬人法で語られるモノは、人間に準じる心をもった存在でありこの例外とされる不気味な世の中。

まさにペットや愛用の道具などがそうであろう。この状況をアナザフロンティアスクールでは無縁地獄などと呼んでいる。

この無縁地獄に対しどうexodus(脱出)していけばいいか?をアナザフロンティアスクールでは以下のように教えている。

日本人はそもそもぬくもりの縁起を大事にしてきた歴史文化であることは、明白である。これを和の国アナザフロンティアスクールでは教えている。

たとえば君たちが通ってるまたは卒業した学校では、そこで共に生きる人間関係が「問題」のほとんどすべてである。

また家庭「問題」と言われるものもそうだろう。テレビも、ドラマばかりでなくニュースやバラエティでも、この人間関係こそが主題である。

環境問題や食品毒物問題も、繊細な人間中心主の世界観の反映だろう。

 次にその人間も二種類に分けられる。

「世間の人間」と「赤の他人」だ。赤の他人は、テレビの中の人と同じである。人であることは認めるが、自分には関係のないところで生きて死ぬ人々だ。

もう一つの「世間」こそ自分が生きなければならない世界で、そこには「仲間」と「他人」がいる。世間とは、自分が属する相互評価グループである。

 ここまでで、自然や物質、生物全体、人類や日本人全体とのつながりは切れ、さらについには己の体ともすでに無縁になっている。

自分が人体内的秩序それらの一部だという認識がきれいに欠落している。

このような世界では、人間は「個人」である。主観的に言えば、「自分は脳内に棲む一人」である。(いま述べていることは、政治的あるいは社会的な個人主義や個人責任の問題ではない。)

 では、たった一人である「脳内に棲む自分」とは何か。

それは「心のセカイ系」と見なされている。

そこで、自分でありセカイ系である心は、心以外の自分、つまり脳内より下の身体を所有することになる。

こうして身体は自分の可処分物体(人体所有感)=使役物となる。援助交際や自殺、脳死状態の臓器供与、また過剰なピアスやタトゥー、過剰な染髪や薬物蔓延の容認、整形や痩身の流行などもこの定義の内にある。

 心、つまり純粋精神となったセカイ系の自分は、神のごとき絶対者であり、超越的な「見る自分」となっている。

自分のセカイ系のココロ以外の人間を含めたすべては、自己体験できぬただ「見られるもの」となり、

自分ができる範囲内でしか私のココロのセカイを理解できない「単純なもの」(ロボット、ブラック・ボックス)となる。

こうして、体も他者となる人間も複雑な現実世界も平板化され、彼や彼女の脳内では色音形はVR化していき、多様性、多層性、複雑性などをことごとく失う。

 その一方で、所有しているはずの身体からは逃れられないことによって、自分は「世間」と「経済」に厳しく相対化されている見たくない現実が寝ても覚めてもココにある。

これは不満足であるばかりではなく、不思議で奇妙でさえあるに違いない。

それに、実感できる肉体的な痛みも精神的な苦痛も、ただ自分一人のココロのセカイのものである。自分の脳内だけが真に生きているし、知っているという驕り。

 暴力(意地悪)は、わかりやすい暴力としてではなく日常の延長として現出する。「ムカツク」や「キレル」は自分軸を押し出した言葉ではなく、自分が曖昧なゆえに発する言葉だ。

他動詞ではなく自動詞であり、主語は「自分の心のセカイ」である。そこには自分の心のセカイをコントロールすべき軸なぞあるわけはなく、心のセカイは無慈悲にランダムに自動的にムカツキ、キレルだけで哀れである。

 成熟とは社会規制である。成熟性意識(健全な美学)が乏しく、幼児性の無意識ばかりが働く(不健康な無学)の心。

それは狭く曖昧な子どもの心だ。あるいは、妄想を夢見る意識だ。

現代日本人において自我(大人意識)はただ発生し、ただいま現象しているだけの幼児性の心=セカイ系となっている。

それは社会事実(歴史の重み)を軽々と飛び級し、いつ境界線を飛び越したのかも分からず「セカイ系に目覚めれば」自分をいわゆる「永遠の未成年」へと変えていってしまう。

 ここで大切なのは「多元世界-4D+4D -5D +5D」の認知である。

このような現状の日本人の多元世界は、当然「この時空現実」に照応している。

占いや怪談、スピリチュアル現象などが好きな日本人であるが、これまたこの世の把握以上のものではない。

セカイ系中心主義的であり、自分とはたった一人であり、心だというテーゼのくり返しにすぎない。この仕組みこそ亜空間知能論である。

つまり現代人にとって人間関係ではない怪談なぞ、少しも面白くないという事だ。

しかしここに失望ばかりではないのが、もはや令和の日本の真の姿だろう。

大切なのは多元性のなかに輪廻つまり回転の開放軸を想起することなんです。

つまり「つながり」の回転を回復するのは、そう難しいことでもないということ。

自分が心(意識)だとしたら、それはどこから来たかを考えてみること。

魂なぞ考えなくてもよい。意識は脳、つまり身体から発生した、それだけでよい。

ではその身体はどこから誕生したのか。

父母、先祖を経て、ついには原生物へとたどり着くだろう。そして生物は無生物、無生物は宇宙線から再び大気圏外の5Dへと収斂していく。

 他存在との時間軸での相似性は、空間軸での親縁性としても発見できる。

人間の身体は、地球生物との、いや地球そのものとの相似性を示している。

たとえば、人間は地球と同じく約七〇パーセントの水分に満たされ、その血液やリンパ液や羊水の成分は海水と酷似している。人間の体液は、海水の四分の一(約〇・九%)の塩濃度だが、これは海の魚とも同じだ。

 地球の潮の干満は月の引力に従っているが、女性の月経も月の周期に従う。

そもそも人間の身体がもつ上下・左右・前後の対称性と非対称性は、地球上の全生物に共通の特徴だ。

これは地球の重力に起因するが、同時に人間の根元的な歴史性を、つまり物質全体のそして生物全体の展開の中で、回転し収束が始まり、やがては開放し終わる存在であることを示している。

これは現代の人間だけで考えてみても面白い。

自分は何に最も似ているだろうか?

同じ人類と呼ばれる他の人間であろう。

それは身体的な特徴ばかりではない。

心の動きこそ、そっくりだ。

しかもいま現代に近くなればなるほど、その近似性が高くなる。

現代ほど、他人のココロが自分のパターンに似てきている時代は実はないのである。

 再び「多元世界」の話である。この多元宇宙は人類遺伝子だけのものではない。

そこは「生きるプラズマ光子」の世界であるが、その光子とは人の「脳内電気の心」ではない。

むしろ肉体的なものだ。

私たち人間の心がタンパク質の複雑な舞である身体から立ち上がった「幽霊/ゴースト」であるように、肉対こそ叡智なる光の棲み処だ。(西欧では、この光の棲み処は「イデア世界」だと言う)

そして多元宇宙をこう考えたらどうだろう。

そこは「認知」の特異点なのだ。

時間として個別的に展開・現象しているのがこの世という切り取りで、すべてが回転運動として集合的に収斂し交わっている次元があの宇宙空間だと。

それゆえ輪廻とは何も生まれ変わり信仰などとだけ古臭く考えることはないのです。

それは、自分たちが繋げ廻る回転(縁起)がそこから生まれ、再びそこへ帰って再び放射していく並行時空の叡智なのです。

 蛇足だが、「個性」教育(世界に一つだけの花幻想)は止めた方がよいと断言しとく。

個性化は必然である。いかに似ようが他人である(一卵性双生児さえ、そうである)。

それよりも、大きな意味での全体性や相似性こそ学ぶべきなのが令和です。

それが個の全体性、万物の統合性、ひいては身体意識の普遍性ユニバーサルデザインを教えることになると結論するのがアナザフロンティアスクールの寺子屋復興の兆しである。