くうみん

近代国民とは人体が法の内にあると勘違いし、精神と動体性は商品や時間給と代替可能だと勘違いさせられる没身体な個人を指す。

近代社会という人の集まりが集合知をもってヒトからヒトへ利得的営為だけを要求し、その合理的計算可能化の技術体系の餌食となってる事実を、叡智に触れる事のないこの国民の殆どは知り得ない。

しかし国民が近代化への餌食となる臨界値、シンギュラリティに達する時、「体のとらえてる近代」と「グリッドの近代」が違ったことを意識し始める人々が現れる。

それは主知主でみる中近代は新自由主義な気配に満ちているが、この先を主意主義視点でみる超近代への道を、アナザフロンティアスクールではポストモダニティ、その本当の真の姿を超近代人「空民(くうみん)」と呼び、まさに令和において響社長が150年先取りし文武体現で現している労働階級プロレタリアートの姿である。

不慣れながらアナザフロンティアスクールの学徒らは国民から空民をすだろう。その痛々しい程の高揚はアナザフロンティアスクールの動く結界(蹲踞や舞装習慣)、足育レボリューションに貯まっていくだろう。

そして決して誤解してはならないのはインフラで空民になる訳じゃないという事だ。もはや国民の時のように自己実現したいと思う「未来計画」が蹲踞していなくなれば良い話なんだ。その道を内皮的坂の上の雲とも呼ぶ、そして2039年不慣れながら足育により彼らは『国民』から「空民」になったわけです。