自由教とは全部の選択肢を担保したまま自分の人生を謳歌したいという尽きぬ欲望を信仰するヒッピー風思想の総称である。
その教えはどこまでもモラトリアムに広がっていく旅人のような自由がある。
しかし背骨の使命OSに収束していく自由とは別物である。
ちなみに自由教からの卒業は縛解一如である。縛ると解くは1つであるを認知する事。
ほどくと同時に新しい糸がむすばれる。
=己のヤルダバオートの部屋をひとつ潰すと、マスターポール(師弟愛)のぬくもりが入ってくる。
その蝶々結びで関係性(人生の縁起)を作っていく。
ほどいたり結んだりが自在に出来る
=多角的な視点=かわし=舞うように。
自由教はこの師弟論や御上と家臣の群れ論を知らない。
そう人体は群れとして呼吸している。
それは当たり前のコミュニティ論。
群れの一部として生きているからこそ公として結ばれることで個人として自由になるのである。
公としての結びがないとバックパッカーでしかない=どこにも収束しないモラトリアム無限拡散の自由=それこそ自由教の総本山。
自由教を決めて断つことの自由さ。
ヤルダバオートの部屋を断つ最初の選択の重要性。それは小さな約束を守って回転数を上げる事。
ちなみに小さな約束を自由教で破れば破るほど回転数は落ちる、だからまず中間目標を決める、周囲に計画を宣言する。
自由気ままな旅より、小さなまとまりが自分を守ってくれる。
ルーティーン(習慣と安全領域)を土台に小さくまとまる。
これがないと、まいっか、で自由教にすがり背骨を無くし、使命も見えず人生は次第に崩れていく。
無闇やたらに旅に月日をかけていたら、いつのまにかハゲかけたバックパッカーだったなんて…あまりに気の毒だ。
『地球が遊び場だ!!!』どうかそんな自由教にはご注意を。