ぎ(ぎりごういつ)

まず「」というのは、羊の下に我と書きます。そもそも羊が大きくなると「美」になる。美という字になる。だから我が美しいことが義でもある。だから、ここで「義」という言葉をもう一回理解して欲しいのです。

そもそも義は我がなくなる事ではないですよね。だから、義理合一って自分という人体が無くなること(自殺や麻薬や電脳化)のメリットでは、義利合一を果たしてることにならないんですね。

それは責任って言葉に言い換えられますね。

キミの生き方には義がないんだよって言った時に、君の身体はいよいよなくなってるよってのが、まさに不義理なんだよ。

《義というのはこの身体を持つ息のさまを全うしていくこと》の叡智が入ってるのね。

つまり《この身体を関係性で美しくすること》が入ってるんです。

なので、この身体を美しくするためにはその身体によって来る虫(印象波)をよく見なきゃいけない。

これが羊に虫が入らぬように油をそそがれた者(クリスト=クリスマスの語源となる概念)の意味。

だからよって来る恐怖(虫)をよく見なきゃいけない。

そこから、それを味方に変えられるだけの知足(蹲踞)をしていかなければならないって事がテーマになっていて、

で、この自己の利益のみを考えて五層対の他の人や他者の背景に対しては無関心。

そんな考えだと、いつのまにか人は離れて行き、からも相手にされなくなり利も遠のく。

大事なのは、あの奇跡のりんごが生まれた由縁もそうだけど、まで虫に食われない林檎は生み出せなかったという所ですよね。

例えばデジモン感覚のそういう人が、奇跡の林檎を育成したキムじいの義利合一の考えを受け継いで、

このキムじいと同じようなやり方を実践していても、結果的に途中で中だるみしてトラクターかけちゃう人もいたりするわけじゃないですか。

けれど確かにはそういう人もいるけど、それでも、真摯に学びたいって人も増えましたよね。

あのキムじいのことも尊敬してる人も弟子も増えたってのも事実だとおもうんで、

そうやって時代状況も平成の頃とは変わってきていて、だと農薬まみれのリンゴより、

農薬かかってないリンゴを食べたい人も増えてきてるから、キムじいのリンゴは売れてると思うんですよ。

アップルパイ作るのだってそれで使ってる人だっているだろうし。

そこがやっぱ大事だなと思っていまして、だから大事なのは《義利合一の中でなんで理が必要か》ってのがとても大事なんですけど、

皆さん、利益と聞いた時に自分の都合になることは他人の都合にならないってどこかで思ってないですか?

つまり自分が得することは相手が損することって思ってることは不義理合一なんですよね。

で義利合一の叡智景色において孔子が言っていたこともそうなんですけど、

明治における経済観ってそこにすごいありまして、

それを僕らは受け継ぎきれなくて、

昭和に入って、平成セカイ系ドリームに入るって流れなんですよ、簡単に言うと。

だから明治の時に描いた国家のあり方としてのお金の回し方や、

商人のあり方や経済のあり方や経世済民のあり方は、まだ再現されてないし、実現されてないんですよ。

そして、それを取り戻すために令和があると私は思うんです。

つまりそれをやり直す。
その続きを今やってるんです。

だから、ここの話がすごい大事だからね。

ここが一番、熱弁したいところで《自分が得する事が相手が得することだって所まで、なぜ僕らは協働性を持っていけないのか》って、その地点が和の国アナザフロンティアスクールの陽明学の学びと繋がりませんか?って話なんですよ。

つまり僕らの物の見方が浅いから僕らが多様性を持ってないからでしょという所で、つまり薄くて単色でカラフルじゃないからでしょって所で、

つまり、色に例えましょう。

自分は赤だけが欲しいって言ってる奴がいて、その赤ばっか取ってったら、確かに逆に赤が欲しいっていった人がいた時に、

「いや俺の赤だから取んないで、俺が赤だから」ってその人がずっと赤を独占してたら、赤が欲しいって言った別の人に赤が足りなくなるのはそうだよね。イメージできるよね。

でも本当はそうじゃない。

つまり、カラフルってことは、

《利を要求することのカラフルさ》の話をしているんだけど、いろんな色に対して敏感になると赤だけがほしいってのは、間違いなく無くなるわけであってオレンジも欲しい。

じゃオレンジも欲しいって言ったときに別の人がオレンジ欲しいって言ったときに「俺また赤を欲しいから」って言った時に、もうオレンジお互いに欲しいって揉め合うことが減るじゃないですか?

このニュアンスで覚えといてほしいです。

何がこの話の中で大事かというと、

義というのは、つまりね自分を美しくするっていうことはどういうことか?それなんですよ。

その結論は《この五感における自分が本当に得する物の方向性、角度を増やすということ》なんです。この叡智的には。

つまり羊の羊毛のように満遍なく伸びる触覚静電気を、トーラス状に上にしていき、我という目耳鼻口を下にしていく。上虚下実の息のさまこそ本物の義利合一の姿だという意味なんです。