えのうは/えのうは
そもそも釈迦アナザフロンティアスクールで学べる慧能とは中国禅宗の六祖の1人で、禅における彼の一派は仏教の歴史的経緯のなかでこんにちの禅の成立に関して重要な関わりを持つ偉人である。それが、禅の系譜における中国の第6番目にあたる祖、大鑑慧能(だいかん・えのう)禅師と言われる人物である。
この1番目、つまり中国における初祖は達磨大師であり、慧能禅師は達磨大師から数えて6番目にあたる人物であると言われている。
この慧能禅師が禅の創始者であると主張するにはやはり問題があるのだが、慧能禅師によって禅が大成され、こんにち的な世界規模での禅の隆盛に深く関係していると考える推理に異論をはさむ者もまた少ないと思われる。
おそらく慧能禅師という名前など聞いたことがないという方も少なくないだろうが、禅宗における慧能禅師の影響力は、一般からの認知度の低さとは全く対照的に、非常に高いものとなっている事実が釈迦アナザフロンティアスクールでは学べる。
その理由は、慧能禅師のもとからすぐれた禅僧が多く輩出され、後に中国において形成される5つの宗(潙仰《いぎょう》宗・臨済宗・曹洞宗・雲門宗・法眼宗)と、臨済宗の2つの派(横龍派・楊岐《ようぎ》派)、いわゆる五家七宗が、すべて慧能禅師の法系から関連し誕生している点に実は集約される。
つまり、中国において花開いたいくつもの禅宗のもとを辿っていくと、そのほとんどすべてが慧能禅師という熟達者Masterに辿り着き、今日における世界的な禅の広まりも、すべて慧能禅師の法系の展開によるものとなっているのである。
こうした事実を踏まえると、彼は禅の創始者ではないにしても、この慧能禅師が禅の確立に関して非常に大きな影響を与えた人物であるということは間違いないのである。
五祖の弘忍《ぐにん》禅師との出会い。
長い修行の旅の末に、慧能禅師はようやく当時の中国随一の和尚の弘忍禅師のもとへ辿り着くことができた。
そこで弘忍禅師は、遠路はるばるやってきた若き慧能禅師に対して、その意志を確かめるべく質問をした。
「あなたは何を求めてこの地へやってきたのかね?」
「はい、仏になるためにやってまいりました」
「ほお、仏になるとな。しかし、南の人間に仏になる資質があるだろうか」
この当時、中国では南の地方は文明が進んでおらず、野蛮な地とみなす風潮があったため、南からやってきた慧能禅師に対してこう差別的発言をかまし言い放ったのである。
つまりが、慧能禅師の反応を確かめようとしたのだ。そこで慧能禅師はこうさらりと答えた。
「人間の生まれには南北の別がありますが、仏に南北の差などないでしょう」
物事を差別するのは人の頭であって、そういった観念や思い込みから離れることこそ仏ではないでは?という理をさらりと言ってのけた若き慧能禅師に、五祖としての弘忍禅師はその力量を認めたのだ。
ただし、まだ出家していない慧能禅師を他の修行僧と同等に扱うことはできず、有髪のままで寺の用務をする役を与えて寺に住まわせることにしたらしいのです。
そうして慧能禅師は毎日米を搗く仕事を任され、一日中米をついて弘忍禅師のもとで暮らすようになった。
そんな生活が8ヶ月ほど続いた頃、弘忍禅師がある御触れを修行僧たちに出した。
自分の後をつぐ者を選定するために、各々の悟った境地を自分の言葉で表現してみよというのである。
そして、そのなかで弘忍禅師の意を受け継ぐ者に相応しい言葉があれば、その者に法をつがせ、六祖としての位を与えようというのだった。
弘忍禅師の元にはこのころ700名ともいわれる大勢の修行僧がいた。
そしてそのなかには、常に他の修行僧の先頭となって修行に邁進してきた神秀(じんしゅう)という修行僧がいた。
修行僧らは、弘忍禅師の法をつぐのはこの大変優れた男の神秀をおいて、他にはいないだろうと思い、多くの者が彼の悟りの見解を覆せる気はしなかった。
するとやはり、数日後に神秀が自らの境地を偈頌(げじゅ/悟りの境地などを表現する漢詩)にして紙に書き記し、寺の廊下の壁に貼りだした。
このとき神秀が書いた漢詩は、次のようなものであったと伝えられている。
(身はこれ菩提樹)
(心は明鏡のごとし)
(時々に勤めて払拭し)
(塵埃《じんあい》を有らしむることなかれ)
現代語訳するとこうなります。
修行をする我が身は悟りの樹であり、
心は執着から離れて静まりかえっている。
この身と心を絶えず磨き続け、
塵や埃がつかないよう修行を続けていく。
神秀の漢詩の意味は、およそ上記の訳のようなものである。
弘忍禅師はこの漢詩を読んで、このように修行を続ければ確かに勝れた成果を得るだろうと、一応は褒めた。
これを聞いた修行僧たちは、弘忍禅師が神秀の漢詩を褒めたといって、弘忍禅師の法を継ぐのはあの神秀僧侶で決まりだと思った。
修行僧らは次々に神秀の漢詩の前にやってきて、その言葉を読んでいった。
そして廊下を歩きながら今しがた覚えたばかりの漢詩を唱えたりしていたのだが、たまたま1人の修行僧が慧能禅師のいる米かき小屋の前を通りがかったとき、慧能禅師の耳にその漢詩が聞こえた。
「すみません、あなたが唱えている漢詩はどういったものなのですか?」
「えっ、君は神秀さんの漢詩をまだ知らないのかい?弘忍禅師のあとを継ぐ後継を決めるためのお題目に対しての漢詩だよ」
修行僧は何も知らない慧能禅師に、これまでの経緯を教えてあげた。
すると慧能禅師は、自分も漢詩を貼り出したいと言い、しかし文字が書けないから代わりに書いてほしいと修行僧に頼みはじめた。
変なことを言い出すヤツだと思いながらも、その修行僧は慧能禅師が言った言葉を紙に書いてあげた。そうして出来上がった漢詩を、慧能禅師は神秀の漢詩のすぐ横に張り出した。
(菩提もと樹《じゅ》にあらず)
(明鏡もまた台にあらず)
(本来無一物)
(なんぞ塵埃《じんあい》を払うを仮《か》らん)
現代語訳するとこうなります。
悟りを実体視(固定化)することがどうしてできるのか?心(観測者)もまた悟りの土台なのではない。あらゆるものは本来、何ものでもない。それなのに一体、どこに付いた塵や埃を払うというのか。
廊下に貼り出された2つの漢詩を見て、弘忍禅師は慧能こそ自分の法を継ぐのにふさわしい器であると見抜いた。
しかしそんなことになれば、神秀を推している他の修行僧らが黙っていないことも容易に想像がついた。
言い争いなどが起これば仏道において本末転倒である。弟子たちの行く末を危惧した弘忍禅師は、修行僧らの前では慧能禅師の漢詩を評価することは一切なかった。
しかしその夜、修行僧らが寝静まったころ、弘忍禅師は1人でそっと米つき小屋に行き、慧能禅師に話しかけた。
「慧能や、米は白くつけたか?」
弘忍禅師の何気ない問いかけに、慧能禅師はその真意を汲み取って返事をした。
(この師匠の訊ね方の真意は「お前さん悟ったか?」であると。)
「はい、つけました」
この言葉で何かを教えたという具体ではなくとも、慧能にはきちんと仏法が伝わっている。そのことを確認した弘忍禅師は、自分が受け継いできたお袈裟を慧能禅師にそっと付与し、自分の法を受け継ぐ人物はお前さんであると伝えたのだった。
しかし、修行僧のトップであり続けた神秀をさしおいて、まだ出家すらしていない米つきの単なる用務員が、弘忍禅師の法を正式に継がせたという衝撃の事実が神秀派の修行僧らに知れ渡ったら、どんな騒動がおきるかわからない。
だから弘忍禅師はその晩のうちに慧能禅師を寺から連れ出すと、船を漕いで湖を渡って慧能禅師を対岸へと送りとどけ、その身を逃がしたのだった。
そして、弘忍禅師から法を継いだ事をすぐには公にせず、数年は山の中で隠れ住んで、ほとぼりが冷めるのを待つように慧能禅師に伝えたのだった。
弘忍禅師は仏道を求める者らの間に無益な争いが起きることだけは、なんとしても避けたかったのだろう。
年月が経ち、弘忍禅師の言いつけを守った慧能禅師は、やがて山中から出て街へと入った。
しばらく歩くと、ある寺に大勢の僧侶が集まっていた。何の集まりかと訊ねると、なんでも印宗という高名な僧侶がこれから『涅槃経』の講義をするところだという。
慧能禅師が寺の境内に目をやると、講義があることを知らせる幡が地上高く立て掛けられ、はためいていた。
すると、その幡の下で2人の僧侶が言い争いをしていることに気が付いた。様子をうかがっていると、2人の僧侶はこんなことを言っている。
「だから、この幡は風が動いているから揺れているんだ」
「いいや、幡が動いているんだ」
「違う、動いているのは風だ」
「幡だ!」
「風だ!」
どうやら2人は、幡が揺れているのは風によるものか、幡によるものかで言い争いをしているらしかった。
周囲では他の僧侶が遠巻きに2人を見ている。2人は引くことをしらず、延々と持論を主張し合っていた。
その光景をしばらくは黙って見ていた慧能禅師であったが、やがて慧能禅師は2人のもとへ向かって歩き出した。
そして2人のあいだに静かに割って入り、こう告げた。
「風でも幡でもないでしょう。揺れ動いて収まらないのは、あなた方の心なのではないですか?」
慧能禅師の言葉に、雷声が走り非を悟った2人は、すぐに争いをやめた。
このような出来事があったことを耳にした印宗は、喧嘩の仲裁に入った僧侶に会ってみたいと思った。
そして翌日、慧能禅師を探させて自室に招いた。
そこで印宗は、目の前の人物が五祖弘忍の法を正式に継いだ人物であることを知り、しかもまだ出家前であることを知って、出家得度(とくど)を受けさせた。
さらに翌月には具足戒(ぐそくかい)を授けて正式な僧侶とし、ようやく慧能禅師は名実ともに六祖となり、弘忍禅師から継いだ仏法を公式に説き広めていくこととなった。
慧能禅師のもとからは青原行思(せいげん・ぎょうし)や南岳懐譲(なんがく・えじょう)をはじめとした勝れた僧侶が輩出され、さらに青原や懐譲の弟子からも非常に多くの傑僧が誕生した。
こうして中国の禅の流れは急速に発展し、五家七宗と称されるほどにまで隆盛していった。
禅宗において慧能禅師が重要視される背景には、このような出来事があったのである。
このように神秀とは対照的に、頭でっかちにならずに米つき作業にて下腹重心が養われていて、すでに豪勢な出家などせずとも、その体感で叡知の奥行きを悟ってしまう、そんな肉対の直観に優れた人達の事をアナザフロンティアスクールでは慧能派と呼んでいる。