ちそく(=つくばい)
足るを知るの意味。「吾唯知足(われただたるをしる)」と読みます。京都の龍安寺にこの文字が掘られたつくばいがあり、そこから広がった言葉のようです。
意味は『わたしは、満ち足りていることだけをしっている。』不満を感じず満ち足りた気持ちを持つことが大事だと、そんな意味がこめられた言葉なんですね。
そして、つくばい(蹲踞、蹲)とは日本庭園の添景物の一つで露地(茶庭)に設置される。茶室に入る前に、手を清めるために置かれた背の低い手水鉢に役石をおいて趣を加えたもの。
手水で手を洗うとき「つくばう(しゃがむ)」ことからその名がある。
もともと茶道の習わしで、客人が這いつくばるように身を低くして、手を清めたのが始まりである。茶事を行うための茶室という特別な空間に向かうための結界としても作用する。
茶道における蹲踞(つくばい)が「茶事を行うための茶室という特別な空間に向かうための結界」であるならば、剣道や相撲における蹲踞(そんきょ)は「白刃の下に身を置き錬磨する特別な空間に向かうための結界」であります。
例えば剣道の場合、九歩の間(お互いの距離がおよそ九歩くらいの距離)にて立礼⇒帯刀して、お互いに三歩進んだ位置で蹲踞するという礼法になってますから、蹲踞した時点のお互いの距離は”三歩の間”となっております。
もしこれが”二歩の間”ですと、”一足一刀の間”か近間に入ってますから、”白刃の下に身を置き錬磨する特別な空間”に踏み込んでることにもなります。
もしこれが”四歩の間”ですと、遠間に過ぎて緊張感が削がれます。
”三歩の間”だからこそ、太刀(2~3尺)を中段に構え、横手を合わせて対峙するという、結界という名にふさわしい位置取りになるわけです。
この位置取りで太刀を抜き合わせつつ蹲踞という戦闘不能な姿勢を取る。
ここに蹲踞アナザフロンティアスクールで学べる古き良き日本人の和の礼節が立ち上がります。
蹲踞から互いが阿吽の呼吸で立ち上がった瞬間から、稽古あるいは試合という”特別な空間”となり、またその”特別な空間”から出る際にも再び蹲踞をすることでその結界から抜け出る、というわけです。
さらに言うと、その結界は自分だけでは作れず、稽古や試合の相手(対つい)があってこそ成立するものなのですから、手前勝手に立礼から三歩進んでヒョイと身勝手に蹲踞するなんてのはまぁ無礼者な訳です。
というわけで、蹲踞とは、稽古または試合という特別な空間に出入りする際の結界である。
そしてその上で蹲踞で体現される境地こそ知足であります。
それは例えるとこうです。
器であるコップは人の心身。水は心の充足度。
つまりこのコップは、充足度50%といったところの心のあらわれ。
いわゆる「どちらともいえない」の位置である。
コップに水が満ちている状態が完全な充足であるから、心身を満たすためには水を注ぎ入れる必要がある。
「心身のコップに水を注ぐ」
もしかしたら人は、そのために生きているのかもしれない。それがアナザフロンティアスクールでの問いかけです。
蹲踞稽古も、突き詰めていけば求めているのは心身の充足。
あえて言葉にだして「充足を求めている」とは言わなくても、行為の源をたどっていけば、そこには必ず「対(つい)になりたい」という、言語化・意識化する以前の根源的な思い回転情報がある。
ブッダも自分のことを「世界で私ほど仕え合わせ(対つい)を求めた者はいない」と言っていた。
そのような言葉が仏典に残っているのである。
人は誰もがご縁(対つい)を求めて生きている。
心身の充足とは、この対との回転その舞のこと。ただし、蹲踞ではコップに水を注ぎ足すという方法は採らない。
水を注ぐことなく器に水を満たすのである。
一体どうやって……?
蹲踞の考える充足は、いたってシンプル。
キッチンから大さじを持ってきて、コップから水を一杯すくいとる。
きっかり15cc。
大さじ一杯の水を得て充足とする。
つまり水を増やすという発想ではなく、
器を「大さじ」という小さなものに変えるのである。
2/1の状態を2/2にするのではなく、1/1にする。
どちらも結局は「1」、つまり完全な充足なのだから、充足度は何も変わらない。
しかし私たち人間という生き物は、なぜだか2/2の充足のほうがより幸せであると錯覚してしまう性分(仮観)をそなえているもの。
そして、できるなら3/3、5/5、10/10でありたいと思い、次第に器を大きくし、ついに心がバスタブほどの大きさに。
それではいつまでたっても充足しないのは無理もないこと。
余計なものは捨て去り、不要なものは手に取らず、
たえず風通しのよいシンプルな心身であることに努める。
1/1の幸せとは、何かを我慢することではなく、余計なものを捨てて、本当に選ぶべきもの、大切にすべきものに心身の触覚意識(肌触り)を向ける生き方をいう。
たとえ貧乏であったとしても、その心身が濃くまぶくあるなら、それ以上の幸せは存在しない。
幸せとは心身が感じること以外の何ものでもないという、幸せというものの本質を知っているからこそ、蹲踞の心は、大さじ一杯で事足りるのである。
「もっと上の幸せがあるのではないか?」
そうやって他人と幸せを比べ合うことで、
人はただ今ある幸せ、蹲踞姿勢を見失ってしまう。
比較というフィルターを通した視線の先にあるのは、常に他人の姿であり、他人と自分との差異でしかないからである。
その眼に自分は映っていない。
肝心の自分自身に眼を向けていないのだ。
今、あなたの心にはどんな器が置かれているだろうか。
大さじでしょうか?
はたまたコップ?でしょうか?
それともバスタブ?
この知足という、
足るを知る蹲踞した後に広がる感性には、
必要以上の大きな器は無用である。